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漫画とドラマと映画

ドラマ『silent』への批判的考察

友達に言われて見始めたサイレント。耳が徐々に聞こえなくなる青年・佐倉想(さくらそう)と、その青年のことが忘れられない女性・青羽紬(あおばつむぎ)が再会するという物語です。

結論から言えば、ちょっとよくわからない。あまり共感できないものでした。ちまたには、肯定的な反応が多いようなので、違う視点からサイレントについて書いて見ようと思います。
ちなみに、「しゃべる図書館」相棒のこっとんとはほぼ毎回感想を共有しながら(励まし合うことで)、三十路越えのぼくもなんとか青年ラブストーリー11話分を見続けられた。

個々のシーンへのさまざまなツッコミどころはあるものの、大きな違和感は3つくらい。
①障害は不幸であるという前提
②全てが二人(だけ)の世界に回収されていく
③考える余白を狭める「説明」

①障害は不幸であるという前提

高校生の佐倉想は、音楽好きなサッカー青年。耳が聞こえづらくなっていき、医者から進行性の難聴(中途難聴)と言われ、ショックを受ける。母親も自分を責めて、「ごめんね」という。想くんはその事実が受け入れられず、高校卒業後、当時付き合っていた青羽紬や高校のあらゆる友人を捨てて、別の地の大学に入学。しかし、大学でも難聴であることで人間関係があまりうまくいかない。

8年後、26歳となり紬と偶然再会する。でも、紬との関係を再開したくない。正確には、聞こえない自分を受け入れる勇気がなくて泣きながら逃走。1話目のラストは結構衝撃的で心つかまれるものもあった。

物語序盤の展開はこんな感じで、想には逃走癖があるのである。
耳が聞こえないことを受け入れられない→社会とはなるべくかかわらない→なのに聴者がまた自分を傷つける→なるべく関わらない
を無限ループのように繰り返す。この「自己再生産的不幸ループ」とでもいうものを断ち切ってくれるのが紬(との再会)であり、そのように物語は展開されている。

でも、その不幸ループに違和感がある。
言い換えると、難聴者・聾唖者が不幸で傷つけられている存在であるのかという疑問と、想というキャラクターがなぜそんなに不幸を背負って逃走してしまうのか
という二つの疑問である。

ひとつ目の疑問について、難聴者・聾唖者が生きづらい面はたくさんあるだろう。聴者の同級生とソリが合わない。自転車に乗っていたら警察官が補聴器をイヤホンと勘違いして外しなさいと高圧的に注意される。

難聴の人には生きづらい社会だね、と思わせるための仕掛けの如く、テンプレート差別というか、テンプレ傷つき体験がたくさんでてくる。もっと率直に言うと、聴者の目線からの「こうあってほしい難聴者・聾唖者像」が想に投影されているようにすら見える。

さらに、二つ目の疑問につづくが、想はいつまで経っても、それらの傷つき体験に受け身なのである。ともかく逃げる、避ける、見ないふりをする。しかし、彼はけっこう高校で人気者だったっぽく見える。信頼できる友人もいたように思う。卒業式で学生代表でスピーチをするくらいだから思慮深い感じもあり、文武両道な好青年。進行性の難聴になったことは、彼のこれまでの全てを根本から覆すほどのものだったのかもしれないが、それにしてもなぜ彼が8年間逃げ続けてきたのか、人物像や感情がほとんど掴めない。

彼なら、大学生活や社会人生活の中で、周りの人の助けも借りながら聞こえない自分にもう少し向き合ったんじゃないだろうか。必要以上に、「受け身で弱く不幸な聾啞者」に仕立てている気がして首をかしげてしまう。

② 全てが二人(だけ)の世界に回収されていく

ラブストーリーは二人だけの世界に没入していくものだから仕方のない部分もある。それにしても、なのである。

よくありそうな障害者差別にさらされる。想くんが傷つく。それに対して紬ちゃんが癒していき関係が深まる。

聴者の春尾くん(演・風間俊介)と聴覚障害のある奈々さん(演・夏帆)がうまくいかなかった経験が、想と紬に教訓を与え、二人の関係性を発展させていく。

紬の元彼であり想の友人である外川くん(演・鈴鹿央士)がいろいろと動き回り、二人の関係を修復していく。

ラストのシーンでは母校の教室や体育館が貸し切られ、想と紬の二人だけの世界が展開される。そこでやりとりされるのは、二人が8年ぶりに再会してからの他の人々との交流から生まれた何かなのかと思っていた。しかし、基本的には、高校生の時に止まった二人の時間を、改めて思い出し温めなおしながら関係を深めていくというものである。

想が時間をかけて難聴になっていったという身体的な感覚も、それにより体験されてきた苦悩も、紬との「きれいな」関係性へとなんとなく昇華されていったという印象。にもかかわらず、最後は想が紬の耳元で何かをささやくだけ、というぼんやりとしたエンディング。「想くんなんて言ったんだろう~~~」って盛り上がる人もいるのかもしれないが、正直、三十路を超えたぼくは「うーん」となりました。

③考える余白を狭める「説明」

たとえば、最終回11話の前半。バイト先のタワレコで紬が正社員になること検討していることについて、後輩(演・佐藤新)とのやりとりがある。その直後、手話教室で働く春尾くんとその同僚のやり取りに転換される場面がある。

バイト後輩:やっぱ社員になるんですか?気にしないですか?この前の人。(=想のこと)

紬:可哀想だから?耳聞こえなくて可哀想だから?歌詞カード読みたいって言っても、タワレコ行きたいって言っても音楽だから触れさせないの?かわいそうだから?
耳聞こえないからこうだって決めつけた考え方しかできないことの方がよっぽどかわいそうだよ。あたしもそうだったけど

(シーン変わり)

春尾同僚:最近分かってきたよ、春尾君のいいところは聞こえない人を可哀そうだと思っていないことだね

春尾:思ってないです。憧れる人もいるくらいです。

なんか、かるぅい。やりとりがかるぅい。
おそらく、「耳が聞こえない人を可哀想だと思うのは聴者の決めつけだ」ということが言いたいのだと思う。その通りだし、結構重要なメッセージでもあると思う。

①で書いたような「障害は不幸である」という社会にどうしても根付いてしまっている前提に挑戦しようとしたのかもしれない。しかし、ぼくとしては、佐倉想をここまで不幸な障がい者として描き続けてきて、突然、最終話で「可哀想だと思うのは決めつけだ」とそれっぽい登場人物にさらっと説明されても、あまり腑に落ちない。

そんなことはわざわざ紬がバイト先の後輩に説教し、春尾くんが同僚に褒められるようなシーンを挿入して説明しなくても、見ているぼくらが感じ、考えればいい気がする。言葉にして説明するポイントと、ぼやかして余白を残しておくポイントが絶妙にズレているような気がする。

まとめ

と、率直に感じたことを書いてみました。
もちろん、これはドラマで現実の話ではないから、違和感があるのは当然でしょう。ただ、ドラマという架空世界の話だからこそ、何か大事なことを伝えられることもあると思います。耳が聞こえないという「障害」と、一度別れた男女の「恋愛」という二つの切り口に挑戦して進めていった結果、分かり合えないけどともかく二人で話し続けるのが大事だよね、という平凡な結論しか示されなかったのは少し残念でした。

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しーまん

口癖が「そもそもそれって・・・」の面倒くさいアラサー男。図書館にひきこもっていたいけど、なんとか外界と接触して生きながらえている。東京在住。

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