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【祝!映画化!】『正欲』の考察~正しい欲ってどうやって決めるの?

世界が判断する“性的なもの”が、いかに限定的で画一的か。それを排斥すれば世の中に漂う“性的な感情”や“性的な視線”も一緒に排斥できるという幸せな思い込みは、単純で直線的だからこそ強い力を持つ。思想や情動も論理で説明できると思っている人たちが打ち立てる規制は、生身の人間の内側にはいつまで経っても到達しない。

『正欲』p334より

朝井リョウの小説『正欲』にでてくる文章である。朝井さんは、アラサーのぼくらと同じ世代の作家で、『桐島、部活やめるってよ』や『何者』などの作品でも、その時に起こっている現象を意地悪くえぐりがちな作家。上記の言葉は、『正欲』に登場する大学生・諸橋大也のものである。諸橋は、ダンスサークルに所属し大学の準ミスターに選ばれたりしているが、一方で特殊性癖の持ち主。人間の姿ではなく水にまつわる映像、たとえば、噴射され飛び散る水や沸騰し暴れる水などに「性的」に興奮する。

そんな彼は、2人の男子小学生のYoutubeチャンネルに「水風船キャッチボール対決をしてほしい」とリクエストのコメントを書き込む。男子小学生は不登校がちな二人で、駆け出しのYoutuber。自分たちの動画にコメントがきたことに喜ぶ彼らは、視聴者からのリクエストに応えようとする。しかし、ある日突然、動画が削除される。

Youtubeのコメント欄でのリクエストによって未成年者が露出多めの動画をアップすることなどが問題視され、Youtube側はプラットフォーマーとして健全さを保つための閲覧制限や動画削除などの規制をかけていったのである。だが、その規制は諸橋大也には「世界が判断する限定的で画一的なもの」にうつる。

この世界にはきっと、二つの進路がある。

ひとつは、世の中にある性的な感情を可能な限りすべて見つけ出そうとする方向。規制する側の人間ができるだけ視野を広げ、“性的なこと”に当てはまる事象を限界まで掘り出し、一つずつに規制をかけていき、誰かが嫌な気持ちを抱く可能性を極力摘んでいく方向。

もうひとつは、自分の視野が究極的に狭いことを各々が認め、自分では想像できないことだらけの、そもそも端から誰にもジャッジなんてできない世界をどう生きていくかを探る方向。いつだって誰だって、誰かにとっての“性的なこと”の中で生きているという前提のもと、歩みを進める方向。

『正欲』p360より

『正欲』のなかの登場人物たちは、ここ数年のぼくの違和感やもやもやを明快に言葉にしてくれていると感じた。

たとえば、今年2023年6月に埼玉県営プールで開催予定であった水着撮影会が、施設管理団体の要請により中止になる騒動があった。一部の地元議員は県営公園での過激な「水着撮影会」の貸出中止を県に求めたそうである。事の経緯はアベプラの動画にまとまっている。

出典:アベプラ「【水着撮影会】性の商品化?女性の自己表現?キャンセルカルチャー?グラドル&紗倉まなと考える」

性的なこととして規制(中止要請)した結果、水着姿を撮ってもらいたいのに撮ってもらえない、収入も得られない者たちが現れ、お金を払って撮りたいのに撮れない者たちが現れる。そういう意味で、議員たちが指摘する「性の商品化」は防げたのかもしれない。だが、商品化するかどうかを決めるのは本人たちの手にゆだねられている部分もある気もする。Youtubeでコメントが来たことに喜び、もっと応えようとするのは、自分の価値が認められたと思えるからだし、自分の水着姿をお金を払ってまで撮ってくれる人がいることは自信にもつながる。

性にまつわる話ではなくても、この違和感はあらわれる。

最近の埼玉県の自民党県議団が提出した虐待禁止条例の改正案。自宅に子どもを残して外出することなどが禁じられるらしい。共働き世代含め多方面から反応がありそうな内容ではある。いつしか、「いやあ、ぼくらが子どものときは鍵っ子ってのがいてね、一人でお留守番したもんだよ~」なんていう時代になるのだろうか。それにしても、水着撮影会も、一人でお留守番も禁止とは、埼玉県はなんて激アツなのだろうか。

出典:2023年10月6日東京新聞ウェブサイト

何が虐待なのかや、この条例で誰が困るといったことは一旦ここでは議論しない。ぼくが感じる違和感は、規制する側の全能感というべきものへの違和感である。虐待をなくすために、虐待につながるあらゆる可能性を掘り出し、それらをひとつずつ潰していければ世界は平和になるに違いない。そんな全能感。

これは特定の自民党議員たちの暴走なのだろうか。むしろ、ぼくたちの欲求に応えるようにこういった規制が生み出されているようにも思える。その欲求とは「何が正しくて、何が悪いのかを決めてもらいたい」というものである。

ぼくらが安心して暮らすためにいろんなルールができればできるほど、ぼくらは考える自由を放棄し、いつしか自由が勝手に狭まっていく。困ったときは先生(警察・役所・国・裁判所etc…)に言えばなんとかしてくれると、義務教育で叩きこまれたぼくらが、実は結果としてぼくらが望んでいないルールを生み出しているのではなかろうか。。。だとすればちょっと悲しい皮肉。

ぼくらは違いすぎる。だから、多様性の中での共生は、傷つけてしまうことばかりで、不快なことばかりであるという前提に立って、いろいろ考えてもよいのではないかという気がしている。

自分の視野が究極的に狭いことを各々が認め、自分では想像できないことだらけの、そもそも端から誰にもジャッジなんてできない世界をどう生きていくかを探る方向。

『正欲』で語られたこの世界の方向性は、ぼくにとっては説得力のあるものだった。でも、実践・実装するのはすごく難しそうなので、もう少し考えてみたいと思った。

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しーまん

口癖が「そもそもそれって・・・」の面倒くさいアラサー男。図書館にひきこもっていたいけど、なんとか外界と接触して生きながらえている。東京在住。

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